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西村邸の想いと、愛すべきクラフトマンシップにふれる読み物です

クラフトマンシップとの語らい―第1回 妖怪書家・逢香さん(前編)

こんにちは、西村邸主宰の杉本です。

 

西村邸は、これから活動していく上で、大切にしたいことをまとめて、「3つの宣言」として掲げています。

1.永く付き合える、もの と ことを愛します

2.クラフトマンシップを愛します

3.きょう会える、あなたを愛します

この記事は、2つめの「クラフトマンシップ」についてのものになります。

Craftsmanshipを日本語に訳すと、「職人技」でしょうか。ぼくはこの言葉の中に、「おだやかな生産の中に濃厚につまった、誇りと願い」という意味を込めました。

ひとつひとつ丁寧につくられるものの中には、そこに辿りつくまでに重ねてきた時間、鍛錬、工夫が「誇り」となって、そしてその誇りを支えるモチベーションが「願い」となって、それぞれ込められているのではないか、と考えています。目に見えるものづくりに限らず、いわゆる第三次産業―サービスの仕事にも、そこに誇りや願いがあれば、クラフトマンシップは宿ります。そう聞いて、あなたの頭に思い浮かぶ人はいませんか?かっこいいですよね、そういう人。

 

西村邸のブログにも、関わってくださった「クラフトマン」とお話しをして、その誇りと願いに触れようという記事を、定期的に上げていきたい​​と考えています。

記念すべき1回目は、妖怪書家の逢香(おうか)さん。20代半ばという若さでありながら、書道の高校教諭や、『黒い妖怪ウォッチ』のキャラクターデザイン、さまざまな寺社への作品奉納など、多彩な経歴をお持ちです。ぼくとは、西村邸の準備中「奈良町にぎわいの家」という施設を通じて出会いました。

2019年の春に、西村邸の創業に向けた、クラウドファンディングを実施しました。その折にご支援くださった方のお名前を、木札に書いて、完成した西村邸のフロントに掲示しています。逢香さんには、この木札を書いていただきました。小さい札の中に、くっきりとした輪郭の力強い文字が躍動していて、とても迫力があります!

建物や庭に携わった方を除けば、最初に西村邸にクラフトマンシップを注いでくださった方として、今回インタビューをお願いしました。

 

 

杉本 ―今日はよろしくお願いします。

 

逢香さん「よろしくお願いします!どんな話をすればいいんでしょう!?」

 

―ぼくも初めての経験で緊張しているんですが、楽な感じで行きましょう笑 逢香さんは、西村邸の構想段階から、ぜひ関わっていただきたいと思っていたクリエイターの一人で、今日はいろいろ深いお話が聞けるのが楽しみです。

早速ですが、書家として制作を始めたのはいつからですか。

 

「母が自宅で書道の教室を開いていたので、筆をとるということは、ずっと自分の生活のそばにありました。絵を描くのも好きで、高校のうちから、大学の美術科か書道科のどちらかに進みたいと考えていましたね。

奈良教育大学の書道科に入って、初めて自分の個展を開いたのは、3年生の時です。教授の紹介でご縁をいただけた、奈良町資料館をおかりしました。でも、そのとき展示した墨を使った妖怪画はライブペインティングで書いた1点だけで、残りはぜんぶ妖怪のボールペン画なんですよね。」

 

―じゃあ、「書家」より「妖怪」の方が先にあったことになるんですね。妖怪に関心を持ったきっかけは何だったんですか。

 

「大学の講義で、「変体仮名」(注.現在のひらがな五十音が統一されたのは明治時代だが、それ以前に使われていた、現代とは異なるひらがなの字体)の授業があって。書物の挿絵に使われている妖怪の絵を見たのが最初です。講義のメインは文字の方なんですけど、挿絵の方がインパクトが強くて笑

江戸時代には「草双紙」っていう、今で言う絵本とか漫画のような冊子のジャンルがあって、そこにキャラクターとして、たくさんの妖怪が出てきます。

草双紙は、ちょっと高級な浮世絵ともまた違って、ほんとに庶民の娯楽っていう感じです。そこに出てくるキャラクターなので、まさにいまのポケモンや妖怪ウォッチのような立ち位置ですね。みんなが知っている身近なものです。

物語の挿絵なので、それぞれにストーリーがあるんですけど、そこにも現代に通じる面白さがあるんですよね。妖怪は人間を驚かすのが仕事なんですけど、働く中での苦悩とか工夫とか。あとは浦島太郎と、竜宮城で出会った魚の間にできた人魚の女の子が、なんとか地上にいる人間の男性と結婚しようとする話とか…

人間とは正反対の価値観を持っているぶっとんだ存在が、人間の社会と交わったとき…生きづらいんですよね。苦悩する様子がおもしろおかしく…たくましく書かれています。そういう様子にどんどん魅かれていきました。」

 

―価値観の違いに悩むっていうところが、庶民にとって身近な存在であったといことと相まって、生々しく感じますね。そこから自分の制作に入っていったわけですか。

 

「そうですね。最初は草双紙にでてくる妖怪をモチーフに、自分で作った現代風の世界に組み合わせていきました。たとえばこれは、妖怪たちがテレビで『ゲゲゲの鬼太郎』を見ているっていうイラストですね。そこからだんだんと、墨を使った大きな作品も書くようになりました。」

―最初に展示されたのが奈良町資料館というのも、奈良との縁を感じますね。

 

「そうですね。神戸から奈良に引っ越してきた時、奈良のひとはほんとに親切やな~!って思いました。大学への通学路だったこともあって、奈良町の人にはとてもお世話になっています。奈良町資料館でも、そのあと在学中に5回、展示をさせてもらいました。

並行して、県外に向けて奈良をPRする仕事にも就かせてもらっていました。あんまり人前に出ていくのは得意ではないんですけど…それでも何か、自分のできることで奈良の役に立ちたいという思いでやらせてもらいましたね。東京で奈良墨をPRする展示をしたときに、偶然『黒い妖怪ウォッチ』の企画をされている方ともお会いして。キャラクターデザインに関わらせていただけました。」

 

―学生時代から、すごい密度で制作や広報に関わられていたんですね。大学卒業前にここまで書道やデザインの仕事が広がるというのは、やっぱり珍しいケースですか。

 

「そうですね、貴重だと思います。」

 

―大学卒業後の進路は?

「教員の道を選びました。「学校が好きじゃない先生になりたい。」と思っていましたね。大阪府で採用してもらえたんですが、きっと当時大阪ではそういう先生が求められていたんだと思います。」

 

―アウトローで妖怪書家っぽいですね~!教員になったあとは、どういうふうに制作を続けられたんですか。

 

「それが、公立高校の教諭になったので、副業として制作の仕事は受けられなくなったんですね」

 

―ぁ、そうか。

 

「教員の仕事も、書道家としてのスキルを十分に活かしきれる環境とは言えなくて…やっぱり制作を続けたいと思って、退職させていただくことになりました。その後は、奈良を中心に活動したいという思いで戻ってきて、妖怪書家としての活動を続けています。」

 

―なるほど。社会に出てから、自分のスタイルを模索していく体験が、なんとなく最初に話してくださった草双紙の妖怪のストーリーとリンクしていきますね。

ぼく自身も、自分にできる生き方、働き方は現在進行形で模索しながらなんですが、そういう経験が、エッセンスとして自分の生み出すものに滲んでくるというのは、わかる気がします。

 

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前編はここまで。後編に続きます。