クラフトマンシップとの語らい―第4回 池田含香堂6代目・池田匡志さん①
こんにちは。西村邸 主宰の杉本です。
西村邸に関わってくださる、職人さん/作家さんへのインタビューを記事にする「クラフトマンシップとの語らい」。
ゆったりとした不定期連載ですが、4回目になりました。
今回は、2020年夏に西村邸で開催した制作体験&展示販売会【工藝合宿】にて、奈良団扇(ならうちわ)づくりのご指導をいただいた、池田含香堂(がんこうどう)6代目・池田匡志(いけだ ただし)さんへのインタビューです。
池田さんのお父様、お祖父様、さらにはその先代から連綿と続く奈良団扇づくり。精緻な切絵細工と、繊細な竹の骨組みが魅力です。
1000年以上の歴史を持つ奈良の伝統工芸品ですが、いま現在「奈良団扇」の名を冠して団扇づくりを続けているのは、池田含香堂さんただ一軒となりました。
先代―お父様を早くに亡くされた匡志さんは、20代前半の若さで6代目を襲名し、お母様たちと力を合わせて、団扇づくりに励んでいらっしゃいます。
この夏は感染症拡大の影響で、本来団扇を奉納するはずの行事も多くが中止になり、苦しい期間だったとのこと。
そんな状況でも前向きな挑戦を続け、その一環として、西村邸でのイベントにもご参加くださいました。
今回は、池田さんの溢れる情熱のルーツと、その向かう先について伺います。「三条通り」という奈良観光の中心地にある、池田含香堂さんの店舗兼工房にて、お時間をいただきました。
みんな奈良団扇について知っているのが当たり前だった
杉本―よろしくお願いします。
秋冬、お店に来る観光の方は増えるかもしれませんが、団扇づくりはオフシーズンなんでしょうか。
池田さん「そうですね。ただ、団扇に貼るための紙を染めたり、来年に向けた仕込みの仕事もいろいろあるので、なんだかんだ忙しくさせてもらってます」
―そうでしたか。お忙しい中ありがとうございます。早速はじめていきますね!
まず、これまでの奈良町との関わりを聞かせていただけますか。お生まれも、このお店の近くなんですよね。
「そうですね。実家はここから歩いて10分くらいです。幼稚園と小学校は、この商店街の中にありますし、中学もこの校区です。」
―生粋の奈良生まれ、奈良育ちですね。
「大阪の大学にも奈良から通っていました。本当に奈良が好きで、離れたくないと思ってるんですよね。」
―おぉ!やっぱりお好きなんですね、奈良!
「好きですね~。今も昔も変わりません。やっぱり若い方だと、大阪や京都に憧れる人は多いんですかね…。
ぼくは、県外に出かけてから奈良に帰ってくると、やっぱり落ち着くし、そういう時に『好きだなぁ』って思いますね。珍しいですかね笑」
―どうでしょう…。奈良で生まれ育った方が、正面から「好き!」っておっしゃることは、必ずしも多いとは言えないのかな、と感じますよ。そういうふうに言えるのってすごくいいですよね。
奈良という土地と同じように、家業だった奈良団扇についても、子どものころからお好きだった、という感じでしょうか。
「そうですね…。奈良団扇については、好き嫌いの枠を超えていると思います。本当に日常の一部なんですよね。
昔から自分の生活の中に在った、おもちゃとか食器とか、それとなんら変わらない身近なものですね。
学校から帰ってきたら、家族が団扇を作っているという環境自体が、好き嫌いの域を超えた自分の生活でした。」
―なるほど、では団扇づくりを始めたのも、自然な流れだったんでしょうか。
「作り始めたのは中学の頃ですね。奈良団扇を作るには、透かし絵を切るための専用の刃物が必要なんですが、職人は、まず自分専用の道具を作ることから始めるんですよ。ぼくがそれを作ったのが中学3年でした。」
―道具から始めるんですね。専用の道具って、なんだか職人っぽくていいですね。
「そうなんですよ。ぼくは他の人の刃物は使えないですし、他の人も、ぼくの刃物は使えないと思います。」
―始められた直接のきっかけは、覚えていらっしゃいますか。
「さっき話したように、ぼくの通っていた幼稚園も小学校もこの商店街にあるので、友達もその親御さんも、ぼくの家の仕事、奈良団扇について知っているのが当たり前だったんですよ。
それが中学に進むと、少し校区が広がるじゃないですか。そうすると奈良団扇を知らない人が周囲に増えてきて。今までみんなが知っているとばかり思っていたのにギャップがあって。それがショックだったんですよね。
『こんなに綺麗で使いやすい団扇があることを、いろんな人に知って欲しい』と、その時はじめて思いました。そこからどんどん気持ちが膨らんでいきましたね。」
―そうすると、ご自分から「家業を継ぎたい」と志願されたわけですね。
「そうですね。父も祖父も早くに亡くなっていたんですが、家族から継いでくれと言われたことは一切ありませんでした。早く継いでほしいという気持ちはあったと思うんですけどね。
大学の進学についても、ぼく自身は高校を卒業したら継ぐのかなと思っていたのに、母の方から『大学にも行っておいたら』と勧めてくれたんですよね。経営の勉強だけじゃなくて、県外の友人と知り合うとか、世の中の常識だったりとか、そういう大学生活で得られることは大人になっても活きてくる、というふうに言ってくれて。」
―優しいエピソードですね。
「やはり、『団扇づくりが好きで、やりたいから継ぎたい』という言葉が僕の口から出るのを待ってくれていたみたいです。父も亡くなる前には、『自分たちの仕事をしている姿を見せて、それが刺激になってかっこいいと思って欲しい』と言っていたみたいで。
母は、継いで継いでと言葉でいうのではなくて、実際に団扇を作っている姿を見せたり、僕が興味持つような仕事を作ったりとか、そういうことを意識して育ててくれたのだと思います。」
―ご家族の想いが、実を結んだわけですね。
自分を“6代目”として客観的に見れるようになった
―大学卒業後、6代目を継いで、本格的にお仕事をされるようになるんですよね。その時に心境の変化はありましたか。
「よく聞かれるんですが、正直、あまり大きな変化はありませんでした。1日のほとんどを仕事に費やすという面では、学生時代とは違いましたけれど、6代目を継ぐことへのプレッシャーみたいなものは、ほとんど感じていなかったと思います。」
―おお。大者の雰囲気が漂いますね笑
「いやいや笑 家族や周囲の人に、サポートしてもらいながらで、本当に心強かったんです。
プレッシャーという言い方をするのであれば、『一軒しかない奈良団扇の専門店』とか『創業170年』というプレッシャーは、ここ数年の方が感じていますね。」
―最近、何かきっかけがあったということでしょうか。
「6代目になって最初の数年間は、『思うようにやってみなさい』というバックアップをしてもらえたこともあって、本当にいろいろなチャレンジをしてきたんです。体験会や講演会というようなイベントや、東京や海外に出張したり。
毎年、新しいことをしよう、何かを来年に残そうという目標を持って、どのチャレンジも、ある程度以上に成功してきたと思います。自分の中で充足感もありました。
でも、言い方を変えると、パンパンに詰まっていた、と言えるかもしれませんね。」
「ここ数年は『次のステージに』という思いもあって、余裕を持たせながら本来の団扇制作に向きあうようにしているんです。
そうすると、池田含香堂や自分自身の立ち位置を客観的に見るようになってきて、そこからプレッシャーが生まれているかもしれません。」
―なるほど。工藝の世界で言うと、まだまだ同年代の方が少ないというのも、あるのかもしれませんね。
「そうですね。若い職人/作家さんはいますけれど、僕のように家業を継いでという方は、同年代だと少ないですね。もちろん、自分で一から立ち上げる苦労は計り知れないですし、僕のようにある程度の基盤があるというのは、楽な面もあるんですけど、一方で背負うものは大きいですし…。」
「職人ではない友人たちとも、やっぱり境遇が違いますしね。もちろん、関心を持ったり労ってくれる友人もいるんですが、なかなか自分の本音は打ち明けづらい部分もあります。熱量が違い過ぎるんじゃないかと思ってて…」
「そういう意味では、【工藝合宿】の時に一緒に食事ができたヒガシダ(モイチ)さんなんかは、年齢は離れていますが、自分の熱量をぶつけられる安心感はあります。」
(一刀彫作家・ヒガシダモイチさんへのインタビュー記事も、こちらからご覧いただけます。)
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