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西村邸の想いと、愛すべきクラフトマンシップにふれる読み物です

伝統を“預かる”ということ―『からむしのこえ』を観て

こんにちは。西村邸も自粛ムードの例に漏れず宿泊、飲食とものんびり(オブラートに包んだ表現)しております。

ただ、西村邸が大切にしたいことを実践し、伝えていくにはよい機会なのかもしれません。

https://twitter.com/NishimuraTei/status/1243736585041891328

今日は、そんなことにもつながる、映画の感想なんかを少し。ご自宅での寛ぎのお供になれば嬉しいです。

 

3月26日は木曜の定休日。西村邸のお庭造り以来お世話になっている土屋裕さん・美恵子さんご夫妻から、工房でひっそりと催された『からむしのこえ』という映画の上映会にお招きいただきました。福島県の昭和村という山村で営まれる、“からむし”という作物をめぐる、農業と繊維産業のドキュメンタリー映画です。

 

“からむし”という作物の存在は、ぼくも今回初めて知りました。麻のような背の高い植物で、茎から繊維を取り、織り糸の原料にします。

おとなり新潟県の伝統産業である、小千谷縮(おぢやちぢみ)の素材として栽培が始まりましたが、山間農業の例に漏れず衰退していく中で、1970年代に自分たちでも織物を製造しようという動きが生まれます。試行錯誤を続けながら、1994年には『織姫』という名で、村外から研修生を招くプロジェクトがスタートしました。毎年数名ながらも、都市からの女性を中心に志願者は続き、現在は26期生を迎えています。

そうした取り組みに関わる、地域のおじいさんやおばあさん、村外から来た”織姫”、そして村出身でありながら織り手の道を選ばなかった若者。それぞれのからむし産業に対する想いが、山村の美しい風景の中で語られる映画でした。

 

上映会には、映画の制作にも関わられた、明治大学准教授の鞍田崇さんが同席されました。著作として『民藝のインティマシー—「いとおしさ」をデザインする』など、民藝や環境の分野に造詣の深い哲学者です。(余談ですが、ぼくが鞍田さんのお話を聞くのは1年半ぶり2度目でした。)鑑賞後には、土屋美恵子さんと参加者を交え、思い思いに感想を語りあう機会を作ってくださいました。

そこで一人の方から出た鞍田さんへの質問に関して、とても印象的なやりとりがあったので書き残しておこうと思います。

 

その問いは「伝統文化/産業は、なにをもって”伝統”になるのか」というものです。

それに対して鞍田さんの出した答えは「バトンを渡す、共有する感覚が生まれた時ではないか」というものでした。

 

たしかに『からむしのこえ』の冒頭は、「親から『からむしは絶やしちゃなんねぇ』と言われて育った」というおじいさんの言葉で始まります。他の家から、管理が続けられない苗を引き受け、少しずつ現れる後継者のために、栽培を続けていらっしゃいます。もちろん今年収穫した分の収益はこのおじいさんのものですが、からむしの苗や、紡ぎ/織りの文化は、昭和村全体―先代―後継者と共有しているものかもしれません。

鞍田さんはさらに、市川崑監督の映画『細雪』の一場面を例に出して話されました。映画の筋自体は省きます…終盤、大阪駅のホームで、東京へ発つ主人を使用人が見送るシーン。そこで使用人は「(大阪の)お屋敷はちゃんと”お預かり”しています」と言いいます。
この場面で選ばれた”預かる”という言葉が、”伝統”の精神を語る上で非常に象徴的ではないか、という見解でした。

 

”伝統”という言葉は、ある面では閉鎖的な堅苦しさを帯びていますが、ともするとその堅苦しさは、先代から”預かった”という責任感から生まれるものなのかもしれません。

ですが、そこに果たすべき責任があるのだとすれば、預かった者が取り組むべきは、形をまもると同時に、次に預かってくれる人に対して扉を開くことだとも考えられます。

 

これは直接『からむしのこえ』では語られないのですが、昭和村のからむし産業も、以前はとても閉鎖的だったそうです。その手法は、親子の間柄で縦の共有はされていたものの、家同士の横の共有は、お隣さんですら乏しかったとか。『織姫』プロジェクトのスタートや、このようなドキュメンタリー映画をつくるにあたって、少しずつ各家庭の手法を明らかにする機会が生まれると、家庭ごとに異なる部分が見つかり驚くこともあったそうです。

こうした横の共有がはじまることで、小さな村の産業であった”からむし”に、これからの世代へ向かう力強い潮流が生まれているということは、とても重要だと感じます。

 

 

鞍田さんは「現代は、手にしたものを全て自分のものだと考えてしまう時代」だとおっしゃいました。

”シェアリングエコノミー”という言葉が少しずつ実践されつつある一方で、都市のコミュニティは依然最小単位を固持したまま。昨今の買占め騒動によって、その事実が明るみに出てしまったことに、ぼくは切なさを覚えます。

 

ぼくも西村邸を預かっている身だと言えます。母―おじいちゃん―ひいおじいちゃんから、そして次にここを使うであろう誰か、からです。

西村邸や奈良町、日本の暮らしを“伝統”として受け継いでいくには、開かれた共有の精神が不可欠だと、改めて感じさせられた機会でした。

鞍田さん、土屋さん、ありがとうございました。

 

『からむしのこえ』は、いろいろなこと抜きに、美しい映像と心地よい音を楽しめる映画でもありました。あなたの目に届く機会があることを願って。

今日も読んでくださってありがとうございました。そして、くれぐれもご自愛くださいね。