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西村邸の想いと、愛すべきクラフトマンシップにふれる読み物です

クラフトマンシップとの語らい―第5編 漆作家・阪本修さん①

こんにちは。西村邸の杉本です。
西村邸に関わってくださる作家さんへのインタビュー不定期連載【クラフトマンシップとの語らい】。第5回は、漆作家の阪本修(さかもと・おさむ)さんにお話を伺いました。

阪本さんは、奈良市出身で、いまも奈良で活動を続ける漆作家さんです。(プロフィールやお仕事は、こちら↓からどうぞ)

http://www.urushi-no-irodori.com

 

4月2日,3日に西村邸で開催する【工藝合宿】と題したイベントに、ワークショップ講師兼お茶会の亭主としてお越し下さいます。
当日は、漆に触れてお箸塗りを体験するワークショップに加え、阪本さんご自身が点ててくださるお茶を、漆の器でいただく茶会を開催します。
以下のより詳細をご案内しておりますので、記事を読んでご興味を持っていただけましたら、ぜひお越しください。

工藝合宿 -第3回・漆工 阪本修- 開催のご案内

 

今回は、東大寺のすぐそばに佇むカフェ【工場跡事務室】さんで開催されている個展会場にお邪魔して、お話を伺ってきました。個展は3月11日~13日にもオープンされています。こちらもぜひ、足を運んでみてください。

とにかく作るのが楽しくて、それ自体が大きなモチベーションでした

 

杉本 ―今日は、個展初日のお忙しい中、ありがとうございます。奈良での展示は久しぶりですか。

 

阪本 「2年ぶりですね。グループ展とかもしばらくやれていないので。」

 

―奈良で作家活動を始められてからは長いんですか。

 

「奈良に帰って来たのが2012年なので、ちょうど10年ですね。その前は東京にいて、2006年から蒔絵(まきえ)師の弟子に入っていました。」

 

―奈良に戻って来られるタイミングは、それ以前から考えていらっしゃったんですか。

 

「”これ”っていうきっかけがあったわけではないですね。工藝の世界の徒弟制度は、5年間弟子をやって1年間奉公して、6年が区切りになることが多いんですよ。先生の下でやっていた大きな仕事が一区切りついたこともあって、自然な形で実家に返ってきましたね。」

 

―東京に行かれる前は、輪島で勉強されていたんですよね。漆器の一大産地です。

 

「そうですね。2001年から学校に行って輪島塗の基礎を5年間教わりました。その経験から、東京でも蒔絵師の先生の下で、塗りを専門に仕事をさせていただいていました。
実家は曽祖父の代から木工の仕事をしているので、自分も塗りの技術を身につければ、実家に戻って仕事をする場合にも力になれると思っていました。」

 

―そうすると、漆を仕事にすることは、お父様からの声があって決められたのでしょうか。

 

「いえ。この世界に入ることは、両親に何か言われたというわけでもなく、自分で決めました。
輪島に行こうと決めたのが、21歳の時ですね。その時通っていた大学をなんとなく辞めてしまって…。それでフリーターというか、ふわふわとしてるところで、父にお寺さんから大口の注文―お茶杓を800本ぐらい削る仕事が入ったんですよ。父ひとりでは手が足りなかったので、ぼくが『余所でアルバイトするよりは家のことやってみるか。』くらいのノリで手伝いに入りました。刃物の研ぎからちゃんと教えてもらったのは、その時が初めてです。

 

―やってみてどうでしたか。

 

「楽しかったですよ!もうちょっと続けてみたいと思えましたね。
ただ、楽しい事とはいえ、ずっと父と2人で実家の空間に居続けるのはなぁ、と思って…笑 まだ学生気分もあったから、学校みたいな所に行けたらと思ってたんですよ。とはいえ、木工のことは家でも教えてもらえるし…。」

 

―そこで初めて、漆の事を考え始めるわけですね。

 

「そうです。祖父の代には、漆の職人さんが家に通って来ていて、そのための道具と部屋は残っていたんですよ。それを見て興味はあったので『じゃあ漆やってみようか。』くらいの気持ちで。
学校は奈良にはなかったのですが、輪島に石川県立の学校があって、当時授業料が無料だったんですよ。県外からも受け入れてくれるところだったので、そこへ飛び込んでいきました。」

 

―すごい成り行きですね!それまで、学校の美術の授業とかはお好きだったのですか。

 

「好きではありましたけど、成績がよかったかというと…笑 手を動かしたりもの作ったりするのは好きでしたね。」

 

―最初の頃は大変だったんじゃないですか。最初の1,2年を振り返って「今考えるとこれがモチベーションになっていたな。」ということはありますか。

 

「確かに慣れない北陸の土地で暮らすのは大変でしたけど、とにかく作ることが楽しくて、それ自体が大きなモチベーションでしたね。飛び込んでみて良かったなという気持ちで、自然と続けられました。
あとは、美術館を見に行ったりすると気持ちも触発されて、『自分ももっと頑張ったらこういうものが作れるんじゃないか。』とか、『こういう道に身を置いてるんだ。』っていうワクワク感があって。そういう憧れも励みになりましたね。」

 

―ご実家にいらっしゃった時には、お父様の仕事をそういう目で見ていらっしゃったんでしょうか。

 

「いえ、そこまで…。父の仕事は注文を受けて作るのがメインで、作品で自己表現する感じではなかったですね。でも、技術とか道具とか、それを使いこなしてる父の姿を見ていると、男心にワクワクすると言うか、『すごいな~。』と感じることはありましたね。」

―輪島の学校を卒業されたあとは、先ほど仰っていたように、東京で修行をされていたとのことですが、所属していたのは”文化財研究所”なんですね。どういう場所だったのでしょう。

 

「やっている仕事としては、美術館に所蔵されている文化財の修理と、お寺さんなどからいただく新規の製作。そして先生が蒔絵作家なので、その作品作りの手伝い。この三本柱ですかね。先ほども言ったように、僕は先生の製作サポートとして、下地塗りの仕事がメインでした。
文化財に触れることにはそこまでときめきませんでしたが、伊勢神宮の式年遷宮や、首里城の琉球楽器に触れる仕事なんかもあって。いろいろな仕事に関わらせて貰えたのは、貴重で楽しい経験でしたね。」

 

その②、奈良に戻り、独立されてからのお話に続きます。