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西村邸の想いと、愛すべきクラフトマンシップにふれる読み物です

ブック・トレード・コーヒー コンセプトノベル

西村邸で実施している企画【ブック・トレード・コーヒー】のコンセプトを、短い小説に書き起こしました。

ご自宅から古本をお持ちになって「シェアカード」をお書きいただけましたら、コーヒーとお茶菓子をごちそういたします。

詳しくはこちらからご覧ください。本の販売と、新企画【ブック・トレード・コーヒー】のお知らせ

 


 

『ブック・トレード・コーヒー』

 

男は光を求めていた。通りに面した大きな窓は格子で細かく引き裂かれ、つつましやかな中庭から注ぐ日差しは、ウナギだかドジョウだかの住処と呼ばれる、洞窟のような古民家にとって、「天使の梯子」と呼ぶには幾分心許ない柔らかさをたたえていた。

 

***

 

その日、偶然その喫茶店を訪れた私は、読み古した文庫本を手にしていた。
おそらく数年はページを手繰っていないその本を、いよいよ手放そうかと全国チェーンの古書店に持って行ったが、ぎらつく感熱紙で差し出された査定額は、「二円」だった。「二束三文」が流通していた当時、それで何が買えたのか、もはや想像もつかない令和の時代。紙の本は、かさばるばかりで大した「資産」にもならないことくらい、私にだってわかっているが、それでも「二円」とは。裏表紙に印刷された「定価七二〇円」の輪郭は手垢でいくらかうつろだとはいえ、なんとも馬鹿にしたものだ。愛着はとっくに完済したと思っていたこの本が、彼らに引き渡すと思うと、途端に名残惜しくなってしまった。
「あー、じゃあ…だいじょうぶです〜」
私は七分目ほどの愛想を繕いながら、同じように愛想ばかりの機械的な温もりを残した感熱紙を、静かに突き返した。

 

男が淹れてくれるコーヒーを、カウンター越しにそわそわしながら待っている。普段は、たっぷりのシロップを加えてふわふわのミルクとキャラメルソースを乗せた「キャラメルスチームラテ」ばかり飲んでいるが、その男と店の調子を抑えた空気にどこか気圧されていた私は、「お砂糖とミルクは?」という彼の問いに、「いらないです」とそぞろな空返事をしていた。

 

藍色の不思議な模様が入ったマグカップ。たっぷりと注がれた液体は、その店の古めかしい梁よりも、さらに暗い色をしていた。「あ、結構多いな」。店のたたずまいから、キャラメルソースが期待できないことは聞かずともわかったが、やはり砂糖とミルクくらいは貰った方がいいか、と逡巡しながら口にしてみると、以外にもその黒鳶色の液体は、私の舌に支えることなく、喉の奥までゆっくりと滑り込んだ。

 

「その本、結構年季入ってますね」
「ぇ。あぁ、学生時代にちょっとハマってた作家さんで。しばらく読んでないからもう売っちゃおうかなと思ったんですけど、古本屋に持ってったら『二円』って言われて、持って帰ってきちゃいました笑」
「お好きだったんですね」
「うーん、そうですね~。なんていうんですか…『大人の世界』っていうか、『現実』っていうか、社会人になってそういうの知っちゃうと、やっぱ小説みたいに甘くないなって思うんですけど、それでもまぁ、就活してた時とかは結構モチベーション貰ってたかもですね〜」
そう訥々と口にしている最中にも、私は、聞かれてもいないことを明け透けに語っている自分への、思いがけない恥ずかしさを募らせていた。文庫本をカウンターテーブルの下へ滑り込ませようと伸ばした私の手を、男の言葉が翻らせた。
「その本、譲っていただけませんか。コーヒーとお菓子のお代は要りませんから」
「え?…そんなのアリなんですか?逆にいいんですか?」
「それ、光かもしれないです。ぼくと、もう一人、つぎの誰かの」

 

(この物語はフィクションですし、この男も実在の人物とは一切関係ありません)